2014年10月

「御嶽山噴火遭難」は34年前に予見されていた!【後編】〜39の火山が囲む「川内原発」再稼働への警告

■5つのカルデラ火山に近いルール無用の川内原発
図1_御嶽山噴火 火山学者の唱える科学的知見に目をつぶっているのは、何も「山が好きな人たち」ばかりではない。
 九州電力・川内(せんだい)原発1、2号機の再稼働をめぐる原子力規制委員会の安全審査では、火山のことが俎上(そじょう)に載せられた。原発の規制基準では半径160キロメートル圏内にある火山を検討の対象にしており、川内原発の場合、その対象となる火山が39もあり、過去に巨大噴火を起こした5つのカルデラ火山まである(【図1】)。
 そのうち3つの火山について、噴火に伴う火砕流(かさいりゅう)が原発の立地する場所にまで達していた可能性を、九州電力でも認めている。1000度近くにも達する高温の火砕流が時速100キロメートルで原発を襲った場合、防御するのはまず不可能だ。
 そこで九州電力は、観測によって巨大噴火の兆候をとらえ、巨大噴火を「予知」した場合は原子炉を止め、5年間かけてすべての核燃料を原発の敷地から運び出すのだという。
 この「火山噴火対策」は、5年後の巨大噴火を予知した場合を前提にしている。しかし、これまでに噴火の予知に成功した例(2000年の北海道・有珠山の噴火)を見ても、予知できたのは噴火のほんの数日前のことだ。たとえ予知に成功しても、核燃料を運び出すのに5年もかけていたら、とても間に合わない。それに、核燃料を運び出した場所が火砕流の及ばないところでなければ、運び出した意味がなくなる。運び出す場所はまだ決まっておらず、とても「対策」と呼べるようなシロモノではない。
 今年8月25日に開かれた原子力規制委の会合では、火山学者たちも一斉に異議を唱えていた。
「巨大噴火の時期や規模を予測することは、現在の火山学では極めて困難、無理である」(東京大学地震研究所の中田節也教授)
「異常現象をつかまえた時に、それが巨大噴火に至るのか、小さな規模の噴火で終わるのか、判断基準を持っていない」(火山噴火予知連絡会の藤井敏嗣会長)
 しかし、原子力規制委は火山学者の警告に目をつぶり、九州電力の案を「火山噴火対策」として十分であると認め、川内原発の再稼働を許可していた。
 ちなみに、原発の憲法とされる「原子炉立地審査指針」には、こう書かれている。
「大きな事故の誘因となるような事象が過去においてなかったことはもちろんであるが、将来においてもあるとは考えられないこと。また、災害を拡大するような事象も少ないこと」
 過去に火砕流が到達したことのあるようなところには建てないというのが、そもそものルールなのだ。つまり川内原発は、建ててはいけない場所に建てられた原発だった。

図2_御嶽山噴火 予知できようとできまいと、地震や火山と上手に付き合いながら生きていくほかないのが、地震国であり火山国でもある日本の宿命だ。それに、【図2】に示すとおり、日本の火山はこんなにいっぱいある。火山活動と全く無縁で済みそうな地域は、恐らく日本のどこにもない。となれば、火山学者の発する警告に謙虚に耳を傾けるほかに、日本が生き延びる道はない。なので、火山学者の皆さんも、少々無視されたくらいで諦(あきら)めたりせず、繰り返し警告を発してほしい。甚大な被害が発生した後になって自身の“先見の明”をひけらかされても、何の防災効果も発揮できないのだから。


取材・文/明石昇二郎(ルポルタージュ研究所)

(記事全文は『宝島』12月号に掲載)

御嶽山噴火2<写真>
再稼働に向けて国が舵を切った川内原発。5つのカルデラ火山の危険にさらされている

「御嶽山噴火遭難」は34年前に予見されていた!【前編】〜封印された1980年の科技庁「報告書」

死者56人、安否不明7人(10月16日現在)――空前の山岳遭難事故となった御嶽山噴火。本誌は1979年の御嶽山噴火を受けて作成された科学技術庁の「報告書」を入手。そこには今回の大惨事を予見したかのような具体的な警告があった――。

■報告書が危惧したとおりの被害が34年後に発生
御岳山噴火0 地震や津波、火山の噴火は予知できない。従ってコトが起きるたびに甚大な被害が繰り返し発生する――。
 酷な言い方かもしれないが、それが今の自然科学の力量である。
 そんな現実を私たちにまざまざと見せつけたのが、2011年3月の東日本大震災と東京電力・福島第一原発事故であり、先月末に発生した御嶽(おんたけ)山噴火遭難事故だった。
 我が国には、地震予知連絡会(国土地理院所管)や、火山噴火予知連絡会(気象庁所管)といった公的組織が存在する。だが、この手の「予知」が専門とされる科学者たちが挙(こぞ)ってマスコミに登場してくるのは、コトが起きる前ではなく、コトが起きた後ばかりである。これでは、全く頼りにならない。
 そう思いながら、御嶽山に関する過去の資料を調べていると、今回の噴火遭難事故の発生を1980年にズバリ「予知」していた報告書を発見した。

■避難用シェルターくらい設置できたはず
 かつて、日本の火山は「活火山」「休火山」「死火山」の3種に分類されていた。1970年代前半、小学生だった筆者は「富士山は休火山」であると、学校の授業で教わった記憶がある。
 そして、そんな世間の常識をあざ笑うかのように吹き飛ばしたのが、御嶽山だった。有史以降、噴火した記録がなく、長らく「死火山」だと思われてきた御嶽山が1979年10月に突如、噴火したのだ。
この噴火のため、前掲の分類は有名無実化し、その後、「死火山」なる言葉は「休火山」とともに死語となり、高校生になっていた筆者は小学校で習った“常識”の訂正を迫られた。
 問題の報告書「1979年御岳(当時の表記ママ)山噴火による災害 現地調査報告」は、この時の噴火被害についてまとめたものだ。刊行されたのは、噴火の翌年の1980年3月。報告していたのは、当時の科学技術庁・国立防災科学技術センター(現・防災科学技術研究所)である。
 同報告書は、御嶽山が抱える「被災ポテンシャル(可能性)」について、次のように指摘する。
「火山地域は温泉湧出地であり、火口湖等湖水も多く、山容も美しいため観光・保養的利用とは切っても切れない関係にある。御岳山は特に昔から霊山としての信仰があり、信者の登山と結びついた地元の産業・生活が根付いている。さらに、交通網の整備により、近年は急速に夏期の避暑地、冬期のスキー場等の観光開発が進み、山村の過疎化の進行を逆転させ、村民生活水準の向上に期待がかけられていた。
 このような状況は、有珠(うす)山、阿蘇山の場合にもみられたように、火山災害の被災ポテンシャルを上げ、防災の見地からは非常に困難な問題を提起している。(中略)今回の御岳山の噴火も、若(も)し夏期の登山シーズンであったならば、人的被害も生じたであろうし、また高山であるため救助活動は非常な困難に遭遇したであろう」
 この時の噴火は早朝に発生している。報告書によれば、噴石で頭に軽いケガをした登山者が1人いただけで、死者は1人も出なかった(注)。だが、その34年後、報告書が危惧していたとおりの事態が発生したわけである。
 この「予知」が有効活用されていれば、御嶽山の山頂付近には避難用のシェルターが整備されていたことだろうし、登る際にはヘルメットの持参が必須とされていただろうし、登山届の提出も義務付けられていたかもしれない。

(注)79年の御嶽山噴火の際には、その5年後の84年9月、御嶽山麓を震源とするM6.8の「長野県西部地震」が発生している。推定の最大震度は、王滝村の震度6(烈震)。御嶽山の南側で「御嶽崩れ」と呼ばれる大規模な山体崩壊が発生し、麓(ふもと)にあった濁川(にごりがわ)温泉を土石流が直撃。同温泉は深さ50メートルもの土中に埋まって消滅した。この地震による犠牲者は29人(死者14人、行方不明15人)だった。
 79年の噴火から今回の噴火までの間に、御嶽山は91年と2007年の2回、噴火している。これらの噴火の後にも御嶽山周辺では火山性地震が頻発していたので、今回も警戒が必要だ。

■「予知」に成功しても防災には生かせない現実
 御嶽山は、2009年に火山噴火予知連が「火山防災のために監視・観測体制の充実等の必要がある火山」に選定している活火山である。「近年、噴火活動を繰り返している火山」だからだ。他にこうした選定を受けている活火山には、報告書にも登場する有珠山、阿蘇山に加え、三宅島や霧島山、桜島などがある。
 一方、御嶽山に対する世間一般の受け止め方は「ロープウェイで楽々登れる安心の観光地」だった。だからこそ、噴火時の山頂には小学生の子どもまでいた。
 なぜ、火山学者の認識と世間の認識に、これほどまでの乖離(かいり)が生じたのか。
 御嶽山の正体や、その潜在的な危険性を熟知している専門家たちが、その科学的知見を世間に向かって嚙み砕いて伝える作業をサボったからである。だから、「予知」に成功していながら、何ら防災に生かされることはなかった。
 噴火の直前までに登山客を安全に避難誘導させる類いの「予知」を成功させることに血道を上げるより、地道に「御嶽山は活火山」と言い続けたほうが、よほど防災効果があっただろう。実際、噴火予知に関わる火山学者たちは口を揃えて、「火山噴火予知はできない」と言っている。

(記事全文は『宝島』12月号に掲載)

取材・文/明石昇二郎(ルポルタージュ研究所)

御嶽山噴火1
<写真>
御嶽山の山小屋から救出した遭難者を運ぶ消防隊員と自衛隊員
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