2013年06月

「JKリフレ」摘発から半年、女子高生と出会える“街”を潜入取材

 今年1月の「JKリフレ」店摘発からほぼ半年。JKリフレのメッカだった秋葉原はどうなって
いるのか。現地に赴くと、街のチラシ配りスポットでは、摘発前と変わらない様相で制服姿の
女の子も目につく。まだ18歳未満と思われる少女が客引きをしていたリフレ店に入ってみる
ことにした。

 受付で聞くと、店には、現役の女子高生(JK)たちが大勢在籍しているという。摘発は
何だったのかと思い、システムを聞くが、この店ではリフレと撮影コースがあり、現在リフレを
行うのは18歳以上の子限定。現役JKのサービスは摘発後NGになっているという。

 30分4999円の撮影コースを選び、16歳の子を指名した。案内されたのは、パーテーションで
区切られた布団が引いてある部屋。撮影スペースがあるわけではないので、リフレの部屋で
撮ってくれということらしい。

 しかし、布団が敷かれた狭い個室で16歳の少女と二人っきりという空間は、いかがわしさを
感じる。着用している制服は今通っている学校のものだという彼女。撮らせてくれるポーズは
「エッチなのはダメ」とのことだが、しゃがみ込むときにパンツが見えたのはお約束か。筆者が
指名した子は、裏オプションがあるような子ではなかったが、個室に入ればスタッフが定期的に
覗きにくるわけではないので、どんな行為や交渉があってもわからないだろう。雰囲気は
今までのJKリフレと何ら変わらない。

 他にも幾つかリフレを謳う店を覗いてみたが、現在秋葉原で現役JKがリフレを行っている店は、
「警察の指導があってからはない」(某リフレ店店長)とのことだった。

■「パンツ売って、唾ちょうだいは多い」
 一方で、そのJKリフレに代わって、JKを謳い文句に急速に数を増やしているサービスがある。
それが、「お散歩メイド」と呼ばれる無店舗型サービスだ。30分4000円、60分7000円といった
料金と引き換えに、一緒の時間を過ごす。名目は観光案内だが、あくまで「名目」だ。

 中央通りから一本奥に入った道路にいた制服姿の少女に声をかけた。Sと名乗る少女に
60分コースをお願いすると、料金は今この場でくださいと言う。路上で直接現金をやりとり
するのは、立ちんぼみたいだと思いながら、近くのファミレスで話を聞くことにした。

 Sは17歳。客とは、ファミレスで話をするか、神田明神、東京ドームシティあたりにデート
することが多いという。もちろん遊び代も客が負担するわけで、1回のデートでの支払いは、
バカにならない額になる。それでもJKと遊びたい男は絶えないようだ。しかし、男たちは、
単なるデートだけで満足するわけではないだろう。

 「もちろん口説かれたりもするけど、断れば強引にしてくる人はいない。
ただパンツ売ってとか、唾ちょうだいとか気持ち悪いのは結構多い」

 こういったシステムのお店で、女の子の人気のあるなしの要因として考えられることは推して
知るべしだ。Sが最後に内緒だと言いながら教えてくれたのは、援助交際している同僚を何人か
知っているということだった。

 まがりなりにもお店の中というガードがあったJKリフレだが、無店舗型にはそのガードすらない。
外で監視の目も届かない中、お小遣いと引き換えに男たちの要求に応えるとなれば、下着を
見せたりする程度で済まないことは火を見るより明らかだろう。

「ランボルギーニ」の半世紀!代々のシリーズを一挙公開!

 伝説の初号機から最新モデル、そしてその変遷をたどる連載。
今回は特別編、スーパーカーブームの立役者であるランボルギーニだ。
同社の設立50 周年の節目にかつて憧れた名車の数々を振り返る!

■少年時代に憧れた伝説のスーパーカー
 読者にとって、最初のクルマの記憶はどのモデルだろうか。70年代初頭に生まれた筆者世代
にとって、明確に覚えているのが、70年代後半に巻き起こった、スーパーカーブームだ。
フェラーリ、ポルシェなど、多くのスーパーカーを間近で見られるイベントなども多く開催され、
日本中の少年たちが熱狂した。

 そのスーパーカーブームの中で、ひときわ輝いていたのがランボルギーニ社のカウンタックだ。
他とは一線を画す直線的なフォルム、圧倒的な車高の低さ、そして垂直に開くシザードア
(正式にはガルウィングじゃないんだって!)。その構造に心をとらわれた人も多かったはず。

 その後、ブームは収束するも、日本はバブル時代に突入。好景気により、憧れだった
フェラーリやポルシェを、普通に街角で見かけるようになった。しかし、ランボルギーニは
ある意味「スーパーカー」でありつづけた。

 その理由のひとつが車両価格だ。最も有名な「ランボルギーニ・カウンタックL P 4 0 0
( 1 9 7 4年)」は当時の価格で1750万円。公務員の初任給で現在と比較すると(約4倍の)
約7000万円。まさに都心一等地のマンションさえ買えてしまうほどの値段だったのだ。

 フェラーリやポルシェといった他のスーパーカーが比較的購入しやすいモデルを
ラインナップするなか(それでも1000万円前後はした!)、ランボルギーニの新車は常に4桁。
庶民に手の届く価格ではなかった。

 さらにもうひとつ、ランボルギーニが別格でありつづけた理由が、その出荷台数の少なさだ。
ランボルギーニが新モデルを発表すると、すぐに売り切れてしまう。一年以上先の製造予定分
まで完売なんてことも珍しくない。そしてコンセプトカーに至っては、数台しか作られないことも多い。
このため、希少価値が高まり、さらにプレミアが付いていった。

カウンタック他








■ランボルギーニの歴史を紐解いてみよう
 そもそもランボルギーニは、トラクターを製造していたフェルッチオ・ランボルギーニが
1963年にイタリアで設立した自動車メーカーだ。最初に発表したのが、64年の「3 5 0 GT」、
そして66年に、伝説の一台である「ミウラ」を発表。大排気量ミッドシップという構造や
フォルムはその後多くのメーカーに影響を与えた。

 そして1974年にとうとう「カウンタック」が登場する。最高時速は公称300キロ。
V型12気筒5・0ℓ超のモンスターエンジンを搭載するランボルギーニだけでなく、スーパーカー
すべての象徴と言えるモデルだった。「カウンタック」はその後1990年まで長く販売され、
その道を後継となる「ディアブロ」そして「ムルシエラゴ」に譲っていった。

 現在現役なのが、V12エンジンを採用するシザードアの「アヴェンタドール」と、V10エンジンを
採用する「ガヤルド」の2シリーズ、8モデル。そして今年になって、新たに2モデルが発表された。
ランボルギーニ社設立50周年を記念した限定モデル「ヴェネーノ」はボディすべてが
カーボンファイバー強化プラスチック製という驚きのモデル。製造台数はわずか3台のみで
その価格なんと300万ユーロ(約4億円)。ランボルギーニはどこまでも、あくまでも
スーパーカーであり続ける。

 そしてもう一台が、この5月にイタリアで開催されたのランボルギーニの50周年イベントで
お披露目された「エゴイスタ」だ。レーシングカーのような一人乗りスタイルとなっており、
コクピット自体もカスタムメイドでデザインできるという。こちらはあくまでコンセプトカーで
現在の所市販の予定はないという。

 60〜70年代生まれの読者なら誰もが一度は、スーパーカーに憧れたことがあるだろう。
ランボルギーニはその頃の憧れを今でも体現し続けている希有(けう)なメーカーである。
安全やエコという観点も大切だが、乗り物への憧れを喚起してくれるスーパーカーの持つ
「有無を言わさぬカッコよさ」に説明は不要。ランボルギーニの名車を見て改めてそう感じた。
ランボはいつ見ても最高だ!

文/コヤマ タカヒロ

ヴェネーノ他

セクハラ、殺人、虚偽調書・・・見逃せない!許せない!“警察”不祥事ワースト5

 証拠捏造、個人情報漏洩、虚偽報告、セクハラ・・・、警察官の不祥事が依然として
連日のように起きている。さらには、その巨大な力が、いまや個人に容赦なく牙をむいてくる。
市民には厳しく身内には甘い−、そんな警察の無軌道ぶりを、警察ジャーナリスト・
寺澤有(てらさわ・ゆう)が斬る!

★第1位!富山殺人放火事件の元警部補を処分保留
2010年4月に富山県警の警部補が会社役員夫婦を殺害し、自宅に放火したとされる事件で、
富山地検は加野猛被告(54)を処分保留と発表。加野被告は、別件(守秘義務違反の罪)で
逮捕、勾留されている。被害者遺族は手記で無念の思いを地元紙に発表。

➡身内に甘すぎるという警察の腐った体質の好例。現役警察官の殺人放火なんて前代未聞。
本部長以下、県警幹部全員が厳しい処分を受けて当然だが、それだけは避けたいという
バイアスがこの結果を招いた。初動捜査ができていないから今後の進展は望めない。

★第2位!大阪府警の警察官らが虚偽調書作成
昨年12月に大阪府警堺署の留置場で起きた公務執行妨害事件(勾留中の男が
警察官を殴り現行犯逮捕)で、当初、警察官らは自分たちの正当性を強調する調書を捏造。
その後、調書の矛盾に気づいた別の警察官が再び調書を捏造した。

➡調書や捜査報告書の捏造は、全国の警察で日常茶飯事。表沙汰になった背景に
警察内部の足の引っ張り合いなどがあったのではないか。虚偽調書やそれに基づく偽証を
検察官や裁判官が見破れないのも問題。

★第3位!「職質」は違法! 都に賠償命令&無罪判決
職務質問で、十徳ナイフ所持により送検され、起訴猶予処分になった男性が起こした
損害賠償裁判で、東京地裁は職務質問の違法性を認定。また警察官が女性を職務質問して
麻薬を見つけたが、令状が必要な強制性があったとして、広島地裁が無罪判決。

➡任意と言いながらほぼ強制で前々から問題視されていた「職務質問」だが、前者は民事、
後者は刑事で、両面から違法性が認められたのは大きい。警察では職質にもノルマを
課していることが背景にあり、点数稼ぎに防犯と関係のない職質が行われている。

★第4位!香川県警警部補がOBに暴力団前科などを漏洩
香川県警の50代の男性警部補が、再就職した元上司の求めに応じて暴力団関係者の
前科などを伝えていたことが判明。

➡昨年も長野県警で警察OBの要請にこたえて個人情報を漏えいした事件が発覚したが、
これも全国の警察で行われていることだ。なぜ企業が警察OBの天下りを受け入れるのか、
考えれば誰でもわかる。

★第5位!埼玉県警、60歳の元警察署長が官舎でキス
越谷署長だった警視が女性と夜桜見物に行った際、抱きしめたり、署長官舎でキス。
知人の情報提供で発覚した。

➡警視は依願退職したが、巨額の退職金を受け取る。強制わいせつ罪なのだから逮捕して
懲戒免職にするのが当然。本当に身内に甘すぎる!

■警察を取り締まる警察をつくらない限りダメ
 「まったくなくなる気配がない警察不祥事や、警察に関する報道から、特に見逃せないものを
取りあげてほしい」という編集部からの依頼を受けてあげたのが上のラインナップだ。

 1位の「現役警察官による殺人放火事件で処分保留」こそ、めったにはないダントツの
不祥事なのだが、それでさえ県警の責任者である本部長が辞任することもないのだから、
警察はどこまで身内に甘い組織なのか、ということに尽きる。

 3位の「職質」の違法性が認められたのは大きい。これまでに断れない「職質」で犯罪者扱い
されてきた人も多いから、これで少しでも不毛な「職質」が減れば非常にいいのだが。

 ただし、2位の虚偽の調書作成、4位の個人情報漏洩、5位のセクハラ事件などは、
新しい話ではなく、これまでにもよく起きていることだ。大事だから繰り返すが、どれもこれも
全国の警察で、当たり前のように発生しているということを忘れてはならない。

 ピックアップできなかったが、上記以外にも、交通違反の反則切符を捏造したり、
ストーカー事件で被害者から相談されていたのに対応しなかったばかりか、対応したと
虚偽の説明をしたり、女子トイレや女子浴場に侵入したとか、警察手帳を見せて女子高生を
クルマで連れ去ろうとしたとか、問題行為は山のように発覚している。

 なぜ警察の不祥事がなくならないのかとよくいわれるが、自分を処分するとなれば誰だって
甘くなるに決まっている。では解決方法がないのかといえば、実は簡単だ。不祥事を見逃して
しまった場合は、見逃さなかった場合より、処分を重くすればいいのである。

 例えば富山の現役警察官の殺人事件も、犯行当時見逃してしまった本部長は今からでも
懲戒免職(=退職金なし)、にする。そうすると、犯行当時見逃さなければ、
依願退職(=退職金あり)で済んだだろうから、不祥事は減る方向にいく。

寺澤 有(てらさわ・ゆう)
1967年2月9日、東京生まれ。大学在学中の1989年からジャーナリストとして、
警察や検察、大企業などの聖域となりがちな組織の腐敗を追及。
近著に『本当にワルイのは警察』(宝島SUGOI文庫)

「あまちゃん」ブームも後押し!夏でも旬のカキが食べられる「かき小屋」

 東北の三陸では「かき小屋」という名の、海産物鉄板焼きが名物だが、最近首都圏にも
同様のかき小屋が沢山できて繁盛しているという。宮城出身の自分としては、黙っていられない。
そもそもかきはRのつく月に食べる旬の食材。どうやって通年出しているのかも興味津々。
早速最近オープンしたばかりの「かき小屋高円寺店」に行ってみた。

 駅から数十秒の所にあるのが嬉しいじゃないですか。店内は本場三陸の店を忠実に再現
しているのにびっくり。デカい鉄板テーブルはお約束だ。足元には食べたかき殻を入れる一斗缶。
壁には魚網をうまく利用したお品書き。そして運ばれてくるお通しがデカすぎてびっくり。
かきとカニ脚の煮物で、もう満腹じゃん。これで500円なり。

 安いといえば、お酒は1人600円払うと持ち込み可能。隣が酒を売っているスーパーって、
ありえない。自慢のかきだが、ここは産地を分散して出し、旬を切らさないようにしている。
極端な話、ニュージーランドは冬なので、そっちから運んだかきもあった。
夏は岩がきがあるし、それで年中無休が可能になったのだ。

 まずいただいたのが兵庫と三重とニュージランド産の三種盛り。これが3つとも味が違って
びっくり。ぺろっとイケる。さらに焼きがきは、しっかり8分間鉄板で蒸して食べる方式で、
地元三陸よりぷりぷりして旨い。かきは加熱すると身が小さくなるのに、ここはデカいまま。
ほか帆立やさざえにかきメシと海産物はなんでもござれ。いや〜これで3000円の客単価は
安すぎる。ふるさとの味を確かめに高円寺に行く。それ、大いにありでしょう。

カキ
<かき小屋 高円寺>

カキ2
<トレンド下駄箱>

死の直前まで食にこだわった、明治の文人「正岡子規」の“勝負メシ”

 身は廃人同然。しかし心までは、侵されてはいない。そこには、生への飽くなき執念、
そして、創作へのこだわりがあった。まだ 30 歳をいくつか過ぎたばかり。俳人、詩人、歌人、
そして評論も。なぜなのだろう。死期が迫るほど、研ぎ澄まされた感性には、ますます磨きが
かけられるようだ・・・。

 ○○君、球を投げました。直球です。打者はよけたが、あっ、死球です。走者となりました−−。
・・・チンプンカンプンな一文で始めてみたのには、理由がある。
実は、正岡子規(まさおかしき)が翻訳し、しかも今もなお使われている野球(ベースボール)
用語だけで試合を中継するとこのようになるのだ。

 言葉の達人であり、野球の信奉者でもあった正岡子規。その両側面を伝えたいがために、
あえて拙文を紹介させていただいた次第。ちなみに、同様に子規が訳した
ホームイン=廻了(かいりょう)、アウト= 除外(じょがい)、フルベース=満基(まんき)などは
とっくに死語と化している。すべて、およそ120年前の造語である。

 四国松山に生まれ育った子規は、高校を中退して15歳で上京。東大(予備門)に入るが、
勉学や歌の勉強をなおざりにするほど夢中になったのが、このベースボールだった。
学生寮のあった神田神保町からあちこちの野球場、というより原っぱへ。

 当時、東大でのクラスメイトや同期生として挙げられるのが、秋山真之、夏目漱石、南方熊楠
(みなかたくまぐす)、山田美妙。彼らの幾人かを誘い、野球に興じたのは間違いないだろう。

まり投げて見たき広場や春の草

 飛びっきりの高級品であったバットやボールなどを宝物のように抱えて、意気揚々と
グラウンドに乗り込む若者たちの姿が目に浮かぶようだ。

 しかし、その潑溂(はつらつ)たる姿は、長くは続かなかった。二十歳を過ぎたばかりで
初めての 喀血(かっけつ)。日清戦争の従軍記者として戦地に赴いた際には、大喀血。
当時、不治の病と言われ、誰もが死を覚悟した結核は子規の肉体を緩やかながら、
着実にむしばんでいく。

 明治30年俳句誌『ホトトギス』創刊。
 31年、『歌よみに与ふる書』発表。
 32年、「根岸短歌会」発足。

 一日中寝たきりで、起き上がる事さえ困難な状態になっても、創作意欲はいささかの
衰えも見せなかった。そして、食欲も。


 『仰臥漫録(ぎょうがまんろく)』(岩波文庫。税込み525円)には、死を迎えるおよそ
一年前の日々の献立が克明に記録されている。今回は、その一日、明治34年9月4日の
食事メニューを再現した。

 「私の計算では、毎日2500キロカロリーを超えています。これは健康な成人の平均摂取量に
匹敵します」と永山久夫氏。その日の全献立を、改めて確認してみた。主食は病人らしく粥(かゆ)
か雑炊とはいえ、かならず3杯分。おかずは鰹(かつお)の刺身、なまり節、キャベツのおひたし、
佃煮(つくだに)に牛乳や葡萄(ぶどう)酒。おやつがすごい。この日は団子4本に塩せんべいが3枚。

 これら一日分の食事をもらさず集めたのが、下記の写真だ。明日をも知れぬ病人の
献立とはとても思えない。
「病人とは言え、毎日これだけ食べて太らないのは、とにかく頭を使っていたからでは
ないでしょうか。脳のエネルギーはブドウ糖しかなく、1時間に5g消費しています。せんべい、
ぼたもち、団子をたっぷり食べていたのには理由があったのです」 

 食いっぷりの物凄さは、
「この頃食ひ過ぎて食後いつも吐きかへす」「夜便通山の如し」と、子規自身が書の中で
語っているほどだ。

 「頭を使うと脳が酸化するので、抗酸化作用のある物アントシアニン質を補給しなくてはなりません。
今回のレシピでこれを豊富に含んでいるのは、ワインとぼたもち。子規の頭脳は、抗酸化成分が
支えていたと言えるでしょう」

今やかの三つのベースに人満ちてそぞろに胸の打ち騒ぐかな

 寝返りも打てない状態にあった明治31年の作である。臀部(でんぶ)に一銭銅貨大の穴が
三つも開き、流れ出る膿(うみ)を妹や母にとってもらう日々。我慢できないほどの痛みを
麻痺剤で和らげながらも、“夢は原っぱ(グラウンド)を駆け巡(めぐ)っていた”に違いない。

 最晩年に書いた文章に『死後』がある。棺に入れられることの窮屈さを嘆くことから始まり、
火葬、土葬、水葬、ミイラについての感想や希望をそれぞれ語る。洒落(しゃれ)のめしている
ようでも、死への恐怖感が確実に伝わってくる。

 「食べなければ、病魔にまけてしまう。そんな恐怖感が子規を過食に駆り立てていたのかも
しれません」永山氏の分析だ。

 療養のため松山に帰省した際には、新米教師として赴任していた漱石の下宿に転がり込んだ。
当時の実体験をもとに書かれたのが名作『坊ちゃん』だ。そもそも子規との交友がなければ、
生粋(きっすい)の江戸っ子、漱石が初の赴任地として四国を選ぶことは考えられなかった。
ならば、『坊ちゃん』の誕生もなかったはず。

 さらに・・・。『吾輩は猫である』の発表は、子規の主宰した俳句誌『ホトトギス』。当時漱石は、
一介の英語教師だったが、この処女作の評判を得て初めて、小説家への転身を決断したとされる。
しかも、“漱石”という号は、子規から譲り受けたもの。もし、子規の存在がなければ、文豪漱石の
誕生はなかったかも知れないのだ。

 たしかに、子規は一面で、自作についてよりむしろ、後進の指導や句界への影響力によって
高く評価されているようだ。直接影響を与えた文人は漱石の他に、河東碧梧桐、高浜虚子、
伊藤左千夫、長塚節など。

糸瓜(へちま)咲いて痰(たん)のつまりし仏(ほとけ)かな

 明治35年(1902)9月19日死去。34歳。

料理・監修/永山久夫(食文化史研究家)

武士メシ
<正岡子規 明治34年9月4日の全献立>
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