身は廃人同然。しかし心までは、侵されてはいない。そこには、生への飽くなき執念、
そして、創作へのこだわりがあった。まだ 30 歳をいくつか過ぎたばかり。俳人、詩人、歌人、
そして評論も。なぜなのだろう。死期が迫るほど、研ぎ澄まされた感性には、ますます磨きが
かけられるようだ・・・。

 ○○君、球を投げました。直球です。打者はよけたが、あっ、死球です。走者となりました−−。
・・・チンプンカンプンな一文で始めてみたのには、理由がある。
実は、正岡子規(まさおかしき)が翻訳し、しかも今もなお使われている野球(ベースボール)
用語だけで試合を中継するとこのようになるのだ。

 言葉の達人であり、野球の信奉者でもあった正岡子規。その両側面を伝えたいがために、
あえて拙文を紹介させていただいた次第。ちなみに、同様に子規が訳した
ホームイン=廻了(かいりょう)、アウト= 除外(じょがい)、フルベース=満基(まんき)などは
とっくに死語と化している。すべて、およそ120年前の造語である。

 四国松山に生まれ育った子規は、高校を中退して15歳で上京。東大(予備門)に入るが、
勉学や歌の勉強をなおざりにするほど夢中になったのが、このベースボールだった。
学生寮のあった神田神保町からあちこちの野球場、というより原っぱへ。

 当時、東大でのクラスメイトや同期生として挙げられるのが、秋山真之、夏目漱石、南方熊楠
(みなかたくまぐす)、山田美妙。彼らの幾人かを誘い、野球に興じたのは間違いないだろう。

まり投げて見たき広場や春の草

 飛びっきりの高級品であったバットやボールなどを宝物のように抱えて、意気揚々と
グラウンドに乗り込む若者たちの姿が目に浮かぶようだ。

 しかし、その潑溂(はつらつ)たる姿は、長くは続かなかった。二十歳を過ぎたばかりで
初めての 喀血(かっけつ)。日清戦争の従軍記者として戦地に赴いた際には、大喀血。
当時、不治の病と言われ、誰もが死を覚悟した結核は子規の肉体を緩やかながら、
着実にむしばんでいく。

 明治30年俳句誌『ホトトギス』創刊。
 31年、『歌よみに与ふる書』発表。
 32年、「根岸短歌会」発足。

 一日中寝たきりで、起き上がる事さえ困難な状態になっても、創作意欲はいささかの
衰えも見せなかった。そして、食欲も。


 『仰臥漫録(ぎょうがまんろく)』(岩波文庫。税込み525円)には、死を迎えるおよそ
一年前の日々の献立が克明に記録されている。今回は、その一日、明治34年9月4日の
食事メニューを再現した。

 「私の計算では、毎日2500キロカロリーを超えています。これは健康な成人の平均摂取量に
匹敵します」と永山久夫氏。その日の全献立を、改めて確認してみた。主食は病人らしく粥(かゆ)
か雑炊とはいえ、かならず3杯分。おかずは鰹(かつお)の刺身、なまり節、キャベツのおひたし、
佃煮(つくだに)に牛乳や葡萄(ぶどう)酒。おやつがすごい。この日は団子4本に塩せんべいが3枚。

 これら一日分の食事をもらさず集めたのが、下記の写真だ。明日をも知れぬ病人の
献立とはとても思えない。
「病人とは言え、毎日これだけ食べて太らないのは、とにかく頭を使っていたからでは
ないでしょうか。脳のエネルギーはブドウ糖しかなく、1時間に5g消費しています。せんべい、
ぼたもち、団子をたっぷり食べていたのには理由があったのです」 

 食いっぷりの物凄さは、
「この頃食ひ過ぎて食後いつも吐きかへす」「夜便通山の如し」と、子規自身が書の中で
語っているほどだ。

 「頭を使うと脳が酸化するので、抗酸化作用のある物アントシアニン質を補給しなくてはなりません。
今回のレシピでこれを豊富に含んでいるのは、ワインとぼたもち。子規の頭脳は、抗酸化成分が
支えていたと言えるでしょう」

今やかの三つのベースに人満ちてそぞろに胸の打ち騒ぐかな

 寝返りも打てない状態にあった明治31年の作である。臀部(でんぶ)に一銭銅貨大の穴が
三つも開き、流れ出る膿(うみ)を妹や母にとってもらう日々。我慢できないほどの痛みを
麻痺剤で和らげながらも、“夢は原っぱ(グラウンド)を駆け巡(めぐ)っていた”に違いない。

 最晩年に書いた文章に『死後』がある。棺に入れられることの窮屈さを嘆くことから始まり、
火葬、土葬、水葬、ミイラについての感想や希望をそれぞれ語る。洒落(しゃれ)のめしている
ようでも、死への恐怖感が確実に伝わってくる。

 「食べなければ、病魔にまけてしまう。そんな恐怖感が子規を過食に駆り立てていたのかも
しれません」永山氏の分析だ。

 療養のため松山に帰省した際には、新米教師として赴任していた漱石の下宿に転がり込んだ。
当時の実体験をもとに書かれたのが名作『坊ちゃん』だ。そもそも子規との交友がなければ、
生粋(きっすい)の江戸っ子、漱石が初の赴任地として四国を選ぶことは考えられなかった。
ならば、『坊ちゃん』の誕生もなかったはず。

 さらに・・・。『吾輩は猫である』の発表は、子規の主宰した俳句誌『ホトトギス』。当時漱石は、
一介の英語教師だったが、この処女作の評判を得て初めて、小説家への転身を決断したとされる。
しかも、“漱石”という号は、子規から譲り受けたもの。もし、子規の存在がなければ、文豪漱石の
誕生はなかったかも知れないのだ。

 たしかに、子規は一面で、自作についてよりむしろ、後進の指導や句界への影響力によって
高く評価されているようだ。直接影響を与えた文人は漱石の他に、河東碧梧桐、高浜虚子、
伊藤左千夫、長塚節など。

糸瓜(へちま)咲いて痰(たん)のつまりし仏(ほとけ)かな

 明治35年(1902)9月19日死去。34歳。

料理・監修/永山久夫(食文化史研究家)

武士メシ
<正岡子規 明治34年9月4日の全献立>